犠牲祭:信仰、原則、倫理へのアプローチ

人生は、長いマラソンであり、密なランニングです。常に努力し、追いかけ、成功しようと奮闘することです。私たちは人生において多くのことに成功するでしょう。しかし、一抹の不安が常に心の中に存在します。

犠牲祭:信仰、原則、倫理へのアプローチ

成功へと追い立てられて走り続ける中、しばしば立ち止まり、それまで無視してきたことに焦点を当てたいと思うものです。モダン主義、ポストモダン主義、ポスト・トゥルースの潮流の中で失ってきたもの、明日に、子どもたちに伝えきれなかったこと、私たちを私たちたらしめる所以の価値を振り返り、その価値に満たされたいと思うものです。

バイラム(宗教的祝祭)とはそんな時機です。人生の栄光の中で立ち止まり、心身を一新するときです。

4000年の歴史を持つ伝統「犠牲」:再び、そして新たに、犠牲祭の週がやって来ました。従来の資料は、三大一神教のユダヤ教、キリスト教、イスラムによって預言者とされているアブラハム(イブラヒム)が紀元前2000年代に生きたことを伝えています。アブラハムは、神への献身を示すために息子のイスマイルを神に捧げようとしました。アブラハムの献身が示されてから犠牲のために屠られた最初の山羊以降、犠牲の伝統はおよそ4000年にわたり続いてきました。

共有であり、助け合いである犠牲:犠牲祭において、屠られた犠牲の困窮者への分配は、世界的な集団儀式のようです。他の時代にも、感謝の表現として犠牲を屠り、困窮者と共有することが奨励されました。

現代人が、快楽主義的に個人的な欲求のみを追い求め、他者のために生きることを考えるということを、獲得したものを他者とも共有することを、まるで過去のものであるかのように認識しているこの時代において、犠牲の呼びかけは超越的な呼びかけであると言えるでしょう。

思い起こすもの、相互の繋がりをもたらすものとしての犠牲:犠牲は物的な共有だけではなく、心の共有でもあります。神に捧げることから犠牲は一方で神を思い起こすことであり、また犠牲祭の間、夫婦、友人、両親、愛する人々を思い起こすことです。慌しい現代生活の中で無視してきた多くの大切な人々とともに過ごすことであり、現代生活を送る人々は、きっと、そんな人々を思い起こすことがどれほど大事なことか、気づくことができないこともあるでしょう。1年中ずっと、誰かが自分を思い出してくれること、自分を訪ねてくれることを待っている人はどうでしょう?育てた人のところにやって来て挨拶してくれるのを待っている人はどうでしょう?そんな人々にとって犠牲祭の価値は計り知れません。

清め、信仰(善行)へのアプローチとしての犠牲:犠牲は、言葉としては、神への接近や感謝の心の表れ、贈り物、いけにえという意味です。犠牲は神に近づくためのきっかけです。コーランの文言にすばらしい表現があります。「犠牲の肉も血も、神に届くことはない。神に届くのは、あなた方の信仰(良心、誠意、責任感)である。このように犠牲を捧げるよう、あなた方に伝えるのであり、あなた方に正しい道を示す神を称えるように。善を行う者に吉報を伝えよ」

今日、人々が東洋でも西洋でも必要としている基本のことは、まさにこのことではないでしょうか?原則、価値、倫理、共有を身近にし、良心、誠意、責任感により行動することではないでしょうか?東洋の社会では貧困にあえぐ人々、西洋では豊かさの中で迷い、虚無感に陥り、孤独の中に生きている人々のために、物的・精神的共有の繋がりにより犠牲が表すものは実に大きなものです。

諦めである犠牲:犠牲はそのどれをも超えて、必要とあらば財産も命も含め、すべてのものを捧げるということです。神に近づくということは、神そのものに近づくということではなく、神に至るあらゆるものに近づき、神から遠ざけるすべてのものを諦め、捨て去ることです。つまり、正義、善、美、共有、利他主義、恵みから遠ざけるあらゆるものを諦め、そのすべてを捨て去ることです。

人間関係、良心、機会である犠牲:犠牲とは、すべてを物的生活や利益により説明せず、それを超越する声に身を委ねること、超越しきった正義、良心、機会によって人生を眺めることです。

犠牲とは身を委ねること:人間にとって本来正しいことは、許された、受け入れられるものにより動くことです。どんな合法な正統性も、受け入れられるとは限らないからです。法律としての合法性は、社会における正統性を、イスラムで許されたものは、良心において受け入れられるものを求めます。しかし、日常生活ではたいていその逆の傾向が見られます。正義、善、倫理に身を委ねることは、たいてい難しいことです。どれほど重く、どれほど痛ましく我慢できないことも、そのすべてに身を委ねることができれば、人類として解決できない問題が果たして残るのか、疑問です。

4000年にわたり、犠牲とは神の命令に身を委ねることであった中、私たちも神に身を委ねることができていればと思います。詩人のアブドゥルラヒム・カラコチは、「傷つけるな」という詩の中で、そのすべての素晴らしさと正義に対し、私たちがどれほど小さな存在であるかをよく言い表しています。

「道は長く、道は細い

道は縮まる、愛が来れば

横たわり、犠牲となれ、イスマイルのように

ナイフがそなたを傷つけないように」

皆さんがいつも原則、価値、信仰に身を捧げること、真実に身を捧げること、あらゆる恵みの感情を抱いて生きられることを願いつつ、皆さんの犠牲祭を祝福します。悩みは分かち合うごとに減り、幸せは分かち合うごとに増えます。人類の苦しみが減り、平穏が広まり、心がゆったりとする犠牲祭となるよう、願っています。


キーワード: イスラム , 犠牲祭

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