「世界の視点」 第36回

インドのムスリム

「世界の視点」 第36回

アンカラ・ユルドゥルム・ベヤジット大学政治学部クドレト・ビュルビュル学長著

 

インドの忘れられたイスラムの歴史

社会学者デイヴィッド・ハーヴェイ氏は、著書「ポストモダニティの条件」の中で、私たちが生きる時代を、時間と空間の圧縮と定義しています。私たちが生きるグローバル化の過程は、遠いもの同士を近づける一方、近いもの同士を遠ざけることもあります。共通の歴史や経験を忘れさせることもあります。

今回はインドのムスリムについて説明したいと思います。今日インドは社会的認識の観点からメキシコほどにも遠い存在です。歴史的にもずっとそうだったでしょうか?

インド亜大陸(インド、パキスタン、バングラデシュ)のイスラムとの出会いは、預言者オメル(ウマル)まで遡ります。

トルコ・ラジオ・テレビ協会(TRT)の海外向け放送「トルコの声」の放送で、チェシュミ・ジハン氏の番組に筆者が招待したニューデリー・マシュラク・センターの研究監督で、アンカラ・ユルドゥルム・ベヤジット大学政治学部の教授でもあるオマイル・アナス教授は、インドのイスラムは3つの道からもたらされたと強調しています。1つ目はインドネシアのようにムスリム商人を通してです。仕事をうまくこなし、売買において信用を得ていたムスリム商人が、大陸でのイスラムの普及に影響しました。

2つ目は、中央アジアからやって来たスーフィー教徒たちがインドで活躍したことです。アナス教授は、特にメヴラーナ・ジェラーレッディン・ルーミーが大陸で有名だったと述べます。インドのムスリム、特にスーフィー教徒は、トルコを訪れたときは必ずコンヤに立ち寄ったと強調します。メヴラーナが二国間のとても重要な架け橋となり得ると言います。メヴラーナもインドにごく近い地域であるアフガニスタンのホラサーン地方の都市ベルフ出身であることが、おそらくその影響を大きくした要素でしょう。その生涯を見ると、メヴラーナは本当に、一方の端がその地域にありもう一方の端がアナトリアに伸びる、そのメッセージが時代を超える歴史を超越した橋のようです。どの時代の地域や国、人々も一体化させます。

3つ目は、何世紀も続いたムスリムの統治です、トルコ系ムスリムの指導者たちは、インドで1000年以降に活躍し始めます。彼らはオスマン朝とアンダルス朝の統治にも見られるように、寛容で、人々の違いを尊重する統治を行いました。インド亜大陸の伝統や地域住民の文化と調和していました。

インド亜大陸は、とても偉大なムスリム知識人も育てました。記憶を少し辿ってみると、イマーム・ラッバーニー(1564-1624)、シャー・ヴェリユッラー・デヴレヴィー(1602-1662)、アブル・ハサン・アル・ナヴディ(1914-1999)がすぐに思い浮かびます。

イギリスの占領の後、インドのイスラムの過去は次第に見えなくなり、知られることがなくなっていきました。あたかも忘れ去られたかのようです。このことにおいて、イギリスの占領政策と同程度に、インド、パキスタン、バングラデシュによる自国の国家樹立の過程における自分の歴史や国民の形成に向けた取り組みも影響力を持ったといえます。

今日2億人以上のムスリム人口を抱えるインドは、世界で最多のムスリム人口を抱えるインドネシアに次いで2番目の国です。インド亜大陸としてみてみると、ムスリム人口の数は6億人近くいます。インドの人口は13億人です。インドのムスリムの今日の状況は、残念ながら決して良いものではありません。アッサム地方でムスリムへの弾圧が次第に強まっています。

700年続いたトルコ系王朝

インド亜大陸では1000年ごろから始まり1857年までトルコ系王朝の統治が続きました。インド亜大陸におけるトルコ系王朝はガズナ朝とともに始まります。最も有名な王朝の1つは、チャガタイ・トルコ族出身のバーブル・シャーとその息子ジハンギル・シャーの時代に最も繁栄したムガル帝国です。

ムガル帝国最後の皇帝バハドゥル・シャーが1857年にイギリスに敗北してから、インド亜大陸では王朝が途絶えました。

オスマン朝のスルタンとインドのスルタンの間には緊密な関係があったことが知られています。オスマン王家がトルコから追放されるとオスマン王家の王女たちの一部はインドの王子たちと結婚しました。

イギリスがインドをもっと早くに占領するか、アメリカをムスリムが発見していたらどうなったか?

今日インドには18の公用語、22の州、400の言語や方言があります。宗教、言語、文化の観点からおそらく世界で最も色とりどりで豊かな国です。この豊かさが今日まで議論されているのは、確実に、何世紀にもわたって続いたムスリムの統治の影響が大きいためでしょう。なぜならその統治は地域の文化、言語、宗教を抹消して同化させるのではなく、それを自らの文明の一部とみなして行われたからです。そのため、ムスリムの統治が消えても、それらの地域の宗教、言語、文化はすべて、そのまま存続しました。ムスリムの統治の方がはるかに長く続いたにもかかわらず、今日バルカン諸国でトルコ語の、アンダルシアでアラブ語の価値すらない中、英語がインド、パキスタン、バングラデシュの公用語の1つとなっています。アメリカでは地域住民の言語、宗教、文化はあたかも世代が途絶えようとしている鳥類トキのように保護されています。

この状況は、「イギリス人が1800年代ではなくアメリカでのように1400年代にインドに来ていたら、結果はどうなっていたか」という問いを否が応にも想起させます。おそらくインドもアメリカのように白人の言語、宗教がより重視され、地域の文化、言語、宗教が消滅させられた国になっていたでしょう。または、その逆を考えてみましょう。アメリカがヨーロッパ人ではなくムスリムに発見されていたら、アメリカの地域住民の状況はどうなっていたでしょうか?アステカ文明、インカ文明、マヤ文明その他の文明、宗教、言語は、このときも消滅させられていたでしょうか?それとも今日のアメリカを統べるのは彼らになっていたでしょうか?

イギリスの占領後にインド亜大陸でヨーロッパの文化のみが支配的だったわけではありません。インド亜大陸は、インド、パキスタン、バングラデシュの3つに分断されました。この分断が、イギリス帝国主義の「分断し、分裂させ、統治せよ」の政策の結果か、でなければ圧迫されたムスリムの絶望的な政治だったかという議論は重要です。インド亜大陸が1つの国として存続していたら、この3か国が相互に対立し合うということはなく、大半のムスリムの影響もあって、おそらくよりずっと大きな安寧や安定が地域にもたらされていたかもしれません。

独立戦争とインドのムスリム

第一次世界大戦でイギリスがオスマン帝国の領土を攻撃すると、インドのムスリムは激しく抗議しました。彼らは自分たちもイギリスの占領下に置かれていました。オスマン国家までもが占領下に置かれれば、彼らの希望はさらに打ち砕かれ、諸国の占領はさらに根強いものとなっていたでしょう。オスマン国家を支えるために、ジンナーとガンディーも支援したヒラーファト運動が開始されました。激しいデモが行われました。この運動の先導者たちは、当時のイギリスの首相と会談しました。独立戦争を支援するためにお互いに資金を集めてトルコに送りました。

グローバル化は世界を相互に近づける一方、私たちに近い地理や共通の過去、歴史の蓄積を忘れさせるものであってはなりません。この近さが、21世紀の先駆的な国になろうとしているインドとトルコの関係を、多面的に強化する好機となるべきです。


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