「トルコと日本の関係」 第38回

トルコと日本の関係における重要な条件の1つであるにもかかわらず、あまり研究されていない人物の1人は、『時事新報』紙に勤めていた野田正太郎でした。

「トルコと日本の関係」 第38回

野田正太郎は、トルコで初のムスリムとなった日本人であり、トルコで初めて日本語の授業を行い、トルコ語を習得した初めての日本人として重要です。

野田正太郎は、南部盛岡藩に属する武士の子息として1868年に八戸で生まれました。1886年に東京に来て慶応大学で学び始め、有名な福沢諭吉の弟子となりました。大学で学んだ後は当時の最も重要な新聞社だった時事新報に勤めるようになりました。

彼のトルコとの関係は、前回短く説明したエルトゥールル号の悲劇の後に始まりました。悲劇の後に日本の新聞社がこの事件に対し強い関心を見せ、報道した結果、日本の人々はトルコ人に共感するようになりました。もちろん、野田もこの時にトルコ人とオスマン帝国に興味を持ち、共感するようになったはずです。多くの日本人が、事故で亡くなったか、負傷したトルコ人海兵の家族に届けるために、日本の新聞社によって始められた寄付金運動に協力しました。寄付金運動に大いに貢献した重要な新聞社は、神戸又新日報と時事新報でした。野田正太郎は、時事新報の通信員として新聞社の希望により、生存者を乗せた軍艦「比叡」に乗り、4000円以上の寄付金をイスタンブールに運びました。日本の学者、三沢伸生氏によれば、この寄付金は、今日の額にして7000万円に相当します。

当時の日本は、まだ豊かでない貧しい国だったということができます。悲劇から助かった負傷者と集められた寄付金をイスタンブールに届けた船がオスマン帝国の首都を離れる2日前に、アブデュルハミト2世が日本の新聞記者たちを招待し、そこで野田は、オスマン帝国のスルタンに謁見することができました。アブデュルハミト2世は、野田のもとへやって来てその手を取り、感謝の意を述べてから、ダイヤモンドで覆われた黄金の煙草入れを贈りました。また、トルコ語を学ぼうとしたことから、野田を賢明だと称賛もしました。野田は、時事新報に寄せた論文で、スルタンの言葉のうち「賢明」という言葉だけがわかったと書いています。

野田は、生存者とともに軍艦「比叡」に乗ってイスタンブールに旅をしていた間に、アリ・エフェンディという将校からトルコ語を学び始め、アラビア文字を覚えようとしました。イスタンブールでは、アラビア文字で「ナガサキ」と書かれた名刺を使って、知り合ったトルコ人の共感を呼びました。彼のトルコ語を学ぼうとする努力は、スルタンの耳にも入り、軍艦が日本に向けて出港する日に、アブデュルハミト2世の伝令は軍艦比叡に3度赴き、野田のトルコ語の学習のためにそのすべての費用をスルタンが賄うことにより、イスタンブールに留まるようスルタンが望んでいることを伝えました。

野田がこの提案を受け入れてトルコ語の学習を続けていた中、今度は宮殿側が、トルコ人将校への日本語の授業を行う者の募集をかけました。野田はこの提案も受け入れ、オスマン帝国の地に初めての日本語教室が、士官学校に開かれました。こうして、トルコに初めて移住し、日本人として初めてトルコ語を学び始めた日本人は、野田正太郎となりました。野田が1892年に日本に帰国した後にしばらく日本語の授業を行った日本人は、1892年4月4日にイスタンブールにやって来た山田寅次郎でした。トルコで野田以上に知られており、トルコと日本の関係において重要な場を占める山田寅次郎に関しては、次のプログラムで説明しようと思います。

わかっている限りでは、野田が日本語を教えたトルコ人将校の数は7人でした。しかし、その全員の名前はわかりません。野田が伝えたところによれば、そのうち5人のトルコ人将校の名前は次の通りです。ワシフ・エフェンディ、中尉レジェプ・エフェンディ、少尉アリ・エフェンディ、少尉アスム・エフェンディ、少尉サブリ・エフェンディです。この将校たちがトルコと日本の関係の歴史の中でどんな役割を果たしたのかは、まだ研究されていません。今後行われる研究が、面白い結果を明らかにすることがあり得ます。

野田正太郎の別の特徴は、1891年にイスタンブールでムスリムに改宗したことです。オスマン時代の文書によると、野田は、ムスリムに改宗した後にアブデュルハリムという名をもらいました。こうしてアブデュルハリム・野田正太郎が、初のムスリム日本人、初のトルコ語学習者の日本人、そしてトルコ人に日本語を教えた初の日本人だということがわかります。野田が日本に戻ってからもムスリムであり続けたかどうかはわかりません。しかし、彼がトルコで暮らした短い間に、時事新報に掲載した回想録によって、イスタンブールから記したニュースは、日本でムスリムとトルコ人への興味と共感を目覚めさせました。

1904年に亡くなったアブデュルハリム・野田正太郎は、もしもう少し長く生きることができていれば、おそらくトルコと日本の関係の歴史において、より重要な仕事をし、その名はもっと知られていたでしょう。



注目ニュース