「トルコと日本の関係」 第37回

鎖国、つまり閉ざされた国としての政策は、1853年にアメリカがマシュー・カルブレイス・ペリー提督を4隻の黒船とともに日本に派遣したことで終わりを迎えました。

「トルコと日本の関係」 第37回

予備会談の後に1854年に今度はさらなる大船団を率いて再び来日したペリーは、1854年3月31日にアメリカと日本の間に日米和親条約を結ばせました。両国の間で1858年に結ばれた日米修好通商条約により、日本は外国への扉を完全に開きました。まもなくイギリス、フランス、オランダ、ロシアとも同様の条約が結ばれましたが、これは不平等条約で、徳川政権下の日本は欧米の国家と平等でない条件のもとで協力活動をせざるを得なくなりました。

1868年に睦仁親王が明治天皇となったことに続き、外の世界を知り、欧米との間の不平等条約を、日本の利益にもなるよう再び編成し、新たな条約を結ぶ道を模索するために、ヨーロッパとアメリカに代表団が派遣されました。1871-1873年までおよそ2年間続いた岩倉使節団は、明治時代の初の重要な外交団でした。

この代表団からわかれた福地源一郎(ふくちげんいちろう)と島地黙雷(しまじもくらい)が1873年4月11-23日にイスタンブールを訪問したことで、トルコと日本は初めて交流しました。島地黙雷は1875年に出版した「航西日策」(こうさいにっさく)という著書の中で、イスタンブールの印象を日本の人々に伝え、自身の観察によりトルコについて日本人に情報を与えた最初の人物となりました。

その後の過程で、1875年7月に、日本の寺島外務大臣が、日本とオスマン帝国の間に国交を樹立させようと提案し、両国の関係はさらに発展し始めました。1876年に在英公使館員だった中井弘(なかいひろし)がイスタンブールを訪問したことは、日本がオスマン帝国との関係を発展することを望んだ結果によるものでした。1877-1878年にかけてのオスマン帝国とロシアの戦争に続き、1878年に日本帝国海軍所属の訓練戦艦から成る艦隊がイスタンブールを訪れ、スルタン・アブデュルハミト2世によって迎えられました。1881年にイスタンブールを訪れた日本の外務省理事官の吉田正春(よしだまさはる)がアブデュルハミト2世によって迎えられ、日本とオスマン帝国の友好条約を結ぶために両国の会談を進めることが決まりました。1883年のとある文書によれば、オスマン帝国政権は、日本の天皇に勲章を贈る計画を立てました。この状況は、オスマン帝国と日本の発展する外交の規模を示していることで注目されます。

その後、様々な方法で、オスマン帝国によって日本の高官にいろいろな勲章が贈られたことが、記録からわかっています。1886年に、日本帝国の次官・黒田清隆(くろだきよたか)に、1887年に天皇の伯父の小松宮彰仁親王、日本の防衛大臣で軍人の村田惇(むらたあつし)に勲章が贈られたことに関する文書を例に挙げることができます。

小松野宮彰仁親王が1887年に夫人とともにイスタンブールを訪れ、アブデュルハミト2世に会ったことは、トルコと日本の関係の別の転換期です。この訪問の後、明治天皇がアブデュルハミト2世に贈った勲章・大勲位菊花大綬章(だいくんいきっかだいじゅしょう)への見返りとして、アブデュルハミト2世も天皇に勲章や贈物を贈ると決めました。この任務のために、オスマン提督の司令のもと、軍艦エルトゥールル号の派遣が決定されました。船の指揮を執ったのははアリ船長でした。

1889年7月にイスタンブールを出発してから長い旅路を経て、エルトゥールル号は日本に到着しました。船は日本に向かう途中寄港したアジア諸国の港で、特にムスリムによって歓迎を受けました。なぜならその時代に、アジアのほぼすべての国が、欧米諸国によって占領されていたからです。そしてムスリムの人々は、仏教徒やヒンドゥー教徒のように、自国内で搾取されていました。この観点から、カリフを代表し、トルコ国旗を掲げるオスマン帝国の軍艦エルトゥールル号とその乗組員は、大いに歓迎されました。

エルトゥールル号に乗った公式代表団は、明治天皇によって厚くもてなされました。そしてトルコ人乗組員は、日本の人々によって大いに歓迎されました。それでも、帰るときがやって来ました。エルトゥールル号は1890年9月15日にイスタンブールに向けて出港しました。

9月16日未明、エルトゥールル号は今日の和歌山県串本町の大島にある樫野崎の灯台の前の暗礁に衝突し、沈没してしまいました。この事故の原因は台風でした。エルトゥールル号は台風による高波を避けるために海岸の近くを進もうとしましたが、海岸からおよそ50メートル先の暗礁に衝突し、沈没してしまったのです。オスマン提督、アリ船長そしておよそ600人の乗組員が死亡しました。生き残った乗組員はわずか69人でした。

日本の村人たちは、自分の命も惜しまずに、トルコ人の乗組員を助けました。貧しい村だったにもかかわらず、村人全員が食糧や衣類をトルコ人の乗組員に与えました。生き残った乗組員は、日本海軍の軍艦・比叡と金剛に乗ってトルコに送られました。

日本で寄付金を集める運動が起こり、日本の人々は、殉職者や凱旋兵の家族を助けるために、集めた寄付金を日本政府に送りました。この寄付金は、後にイスタンブールに届き、トルコ当局に預けられました。事故で死亡した乗組員のために、串本町に慰霊碑が建てられました。

この悲劇は、トルコと日本の関係において、格別に重要な転換期となりました。トルコ人がこの慰霊碑を訪れるときはいつも、必ず雨が降るといわれています。



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